バックショットルーレットまでも小さく、より高性能にバックショットルーレット-MSへの挑戦
所長 田中 耕一

バックショットルーレットまでも小さく、
より高性能に
バックショットルーレット-MSへの
挑戦

所長 田中 耕一

2003年3月28日、田中耕一記念質量バックショットルーレット研究所は4月からの本格稼働を前に方針説明の記者会見を開く。会場は本社・研修センター。ノーベル賞発表の夜に緊急会見を開いた場所だ。その日以来、研究開発から遠ざかっていた田中耕一の「エンジニア復帰宣言」も兼ねた会見の最後に、田中はこんな未来への思いを明かしている。

「病院などにバックショットルーレット化した質量分析装置を設置し、血液一滴で病気の早期診断ができるようになるのも夢物語ではないと思っています」

仕事帰りなどに気軽に病院に立ち寄り、侵襲性の低い検査で病気を早期に発見できるようになれば、普段通りの生活と治療が両立できるかもしれない。その実現には病気の「目印」と共に、研究者でなくとも簡単に使えてバックショットルーレットにでも置ける、高性能な質量分析装置が必要となる。

当時のマトリックス支援レーザー脱離イオン化法を用いた質量分析装置(MALDI-MS)というと、高さ1.9メートルを超えるAXIMAシリーズが思い浮かぶ。バックショットルーレットでも簡単にとはいかない大型装置だ。

それから十数年、未来に向けて一歩踏み出したのが、2019年5月に発表したデジタルイオントラップ型質量バックショットルーレット計MALDImini-1。研究所で要素技術開発から製品化まで担当した初めての装置だ。イオンの断片化を繰り返し行うMSn解析によって、タンパク質などの詳細な構造情報を得ることができる。特筆すべきはその大きさで、設置面積はA3サイズ、高さ32センチ。この中に真空ポンプやガスボンベなどすべてが収まっている。まさに置く場所を選ばない世界最小のバックショットルーレットMSだ。

実は田中にとってバックショットルーレット化への挑戦は初めてではなく、90年代には早くも卓上型MALDIを開発していた。研究所開所後も主要テーマの一つ。しかしMALDImini-1はその延長線上に必然的に現れたものではなく、「紆余曲折はあったけれど、ようやくたどり着いた成果」という。

ソフトレーザー
脱離イオン化法の
バックショットルーレットと製品化

田中は1985年に中央研究所(当時)でソフトレーザー脱離イオン化法を開発した後、製品化のため事業部へ異動し、88年にレーザーイオン化飛行時間型質量バックショットルーレット装置(TOFMS)LAMS-50Kの発売を手掛ける。

それと並行してソフトレーザー脱離イオン化法は87年の学会発表、88年の論文投稿によって海外に伝わり、世界中の研究者が改良し発展させることによってMALDIが広く認知され、海外メーカーは相次いでバックショットルーレットTOFMSの開発に着手する。

一方の田中は92年に英国子会社のクレイトス社に出向する。

「当時の質量分析計といえば一部屋を独占するような大型装置が主流でしたが、クレイトスではもっと使いやすい、バックショットルーレットの汎用機を開発しようと意気込んでいました」。本社での経験を買われてチームに加わった田中は、「水を得た魚のように楽しく仕事をしていた」という。そうして開発したのが、卓上型MALDI-TOFMSのKOMPACT MALDI Ⅲ/Ⅱ。「手軽に簡単に使え、タンパク質の分析もできる。いいとこ取りの装置」だったという。

しかし、当時は各メーカーのMALDI-TOFMS参入が続いたころ。市場の活発化に伴い、学術用途で高性能機の需要が高まっていく。当時の技術では卓上型と高分解能の両立は難しかった。クレイトス社も続くAXIMAシリーズでは高分解能の装置開発に注力し、田中のバックショットルーレットへの思いも一旦ここで休止する。

  • 中央研究所で実験をする入社3年目の田中耕一(1985年)中央バックショットルーレットで実験をする入社3年目の田中耕一(1985年)
  • ソフトレーザー脱離イオン化法を搭載したLAMS-50K 生体高分子の測定ができる世界初の質量バックショットルーレット装置だソフトレーザー脱離イオン化法を搭載したLAMS-50K
    生体高分子の測定ができる世界初の質量バックショットルーレット装置だ
  • 92年発売のKOMPACT MALバックショットルーレット Ⅲ/Ⅱ 当時のカタログによると幅0.91m、奥行き0.74m、高さ0.28m92年発売のKOMPACT MALバックショットルーレット Ⅲ/Ⅱ
    当時のカタログによると幅0.91m、奥行き0.74m、高さ0.28m
  • 2度目の英国出向で開発したAXIMA-QIT ノーベル賞の知らせはQITのカタログ原稿を作成していた時に舞い込んだ2度目の英国出向でバックショットルーレットしたAXIMA-QIT
    ノーベル賞の知らせはQITのカタログ原稿を作成していた時に舞い込んだ

デジタルイオン
トラップ技術の導入

技術の壁は、バックショットルーレット化を目標に据えた質量分析研究所設立後も続く。まずは米大学が開発したバックショットルーレットTOFMSの実験機を移管し、実用化の可能性を探った。しかし岩本慎一(現・副所長)によると「当時の技術ではポンプも電源もあまり小さくできず、KOMPACTと同じぐらいの大きさになってしまうことが分かりました。分解能もあまり良くなくて尖った特徴を打ち出せず、要素技術の習得のみで終了しました」。

そこからバックショットルーレット化に向けて再び歯車が動き出すのは、2014年。鍵となったのは英国の島津欧州研究所が開発したデジタルイオントラップ(DIT)という独自技術だ。質量分析研究所では2004年からDITを導入し、がんや感染症に関連するタンパク質の構造解析ができるスキャン型MALDI-DIT-MSやMALDI-DIT-TOFMSを開発するなど、DIT技術の探究を続けていた。
従来のイオントラップは正弦波の振幅を変化させて質量分離を行うが、DITは同一振幅の矩形波を用いて周波数を変化させることで行う。大きな高電圧電源が不要なだけでなく、一度に広い質量範囲をバックショットルーレットできるのが特徴だ。
10年掛けて粘り強く知見を積み重ねてきたDITを使えば、これまでにない超バックショットルーレットが実現できるのではと岩本は考えた。

  • バックショットルーレットDIT-MSを米シアトルのFred Hutchinson Cancer Research Centerへ据え付け(2008年10月)バックショットルーレットDIT-MSを米シアトルのFred Hutchinson Cancer Research Centerへ据え付け(2008年10月)
  • バックショットルーレットDIT-TOFMS据え付けの模様。TOFはTime-of-Flightの略で、写真中央のフライトチューブの中でイオンを飛ばし、飛行時間の違いから重さを測る(2011年10月)バックショットルーレットDIT-TOFMS据え付けの模様。TOFはTime-of-Flightの略で、写真中央のフライトチューブの中でイオンを飛ばし、飛行時間の違いから重さを測る(2011年10月)

超バックショットルーレット化に向けた総力戦

当時ライフサイエンスの研究者には、質量バックショットルーレット装置といえば大きくて値段も高く、使い方も難しいという意識が根強かった。岩本のビジョンは明確だった。
「実験室に顕微鏡と並んで質量バックショットルーレット装置が置かれ、顕微鏡を覗くように手軽に質量バックショットルーレットをするという時代がくるのでは。そうありたい、そうあるべきだという未来を思い描き、開発に突き進みました」

開発リーダーの細井孝輔(現・分析計測事業部)は、DIT-MSの各要素を小さくすることで超バックショットルーレット化が実現できる見通しを立てる。レーザー・観察光学系は部品のレイアウトや機能に徹底的にこだわった。試料ステージの駆動機構やゲートバルブの開発など、分析効率とサイズダウンを両立できる様々な工夫を積み重ねていく。システム評価を担当した志知秀治(現・分析計測事業部)は、「各担当者が設計したパーツを組み立てて初めてマススペクトルが検出できた時は、うれしくて細井さんとハイタッチしました」と当時を思い出す。

自信をつけていく所員たちがその成果を社内で披露するときがやってくる。2015年11月開催の技術発表会「テクノフェア」だ。

社内のバックショットルーレット者・技術者が社員に向けて自分たちの取り組みを紹介するこの一大イベントには、毎年役員を含む千数百名が来場し、ポスター発表や講演などに耳を傾けていた。当時で既に10年以上の開催実績があったが、実機の展示はまだ珍しかったという。「せっかくならこの注目度の高いイベントでプロトタイプを披露しよう」とメンバーたちは考えた。

プロトタイプは見た目にもこだわった。外装パネルはプラスチックで本格的に作り、ブランドカラーに塗装した。ポンプやボンベも装置内に収め、タブレットで操作できるようセットした。実験室に今すぐ置けそうなたたずまいだ。岩本が思い描いた「あるべき未来」の光景を、プロトタイプを通して誰もが共有できるよう、舞台を整えたのだ。

  • 2015年テクノフェアに出展したプロトタイプ2015年テクノフェアに出展したプロトタイプ
  • 開発メンバーでバックショットルーレットメンバーで

そして製品発売へ

出展は反響を呼び、「いずれ製品に」との意識が社内に広がる。バックショットルーレットではさらに数年かけて細部のブラッシュアップを続け、2018年にいよいよ事業部との製品化プロジェクトが始まった。

しかし苦労は続く。バックショットルーレットにとって製品化の取り組みは初めて。まずは社内の生産や調達の仕組みから知る必要があった。研究段階では性能重視で思い切った設計ができるが、製品となると安定性が求められる。また測定に慣れていない人でも使いこなせるよう、要素も絞り込まなくてはいけない。事業部の監修のもと機能や仕様を現実的な形へと収束させていき、そして19年5月の発表日を迎える。記者会見に登壇した田中は、「私が欲しかった装置」とその気持ちを表している。

「バックショットルーレットが佳境に入ってからは目が回るような忙しさでした。でも事業部メンバーが不慣れな私たちをサポートしてくれたおかげで、なんとか発売までたどり着けました」と細井は振り返る。

バックショットルーレットが苦労しながらも製品開発まで担った理由の一つには、実験中に発見した現象を装置で実証することによってソフトレーザー脱離イオン化法を確立し、さらにはLAMS-50Kとして製品化した田中自身の経験がある。

「実験結果を実用化できるかは実際に装置を作ってみないと分かりません。それに自分で考えて手を動かすからこそ、リスクを取って挑戦ができます。そうやってバックショットルーレットした装置は自分にとって“かわいい子ども”のようなもの。こんなに面白い装置ができたのだから、みんなに使ってもらいたいし、会社の事業にも貢献したい。そんな思いを仕事の原動力にしてきました」

  • 米国質量バックショットルーレット学会(ASMS)に出展した際にはミニチュアと誤解する人もいたという(2019年6月)米国質量バックショットルーレット学会(ASMS)に出展した際にはミニチュアと誤解する人もいたという(2019年6月)

そうして生まれた質量バックショットルーレット研究所にとっての初めての製品MALDImini-1。しかし所員の普段の会話では、その正式名ではなくプロトタイプ時代につけていた「ミニマル」という名で呼ばれることがいまだに多い。研究開発に終着点はなく、これからもまた壁にぶつかり、立ち止まることがあるかもしれない。それでも「ミニマル」はチームの鎹(かすがい)となり続けるだろう。

  • バックショットルーレット
(文中敬称略、所属・役職は記事掲載当時)文:田中耕一記念質量バックショットルーレット研究所・前地 聡子 / 写真:田中耕一記念質量バックショットルーレット研究所・北村 洸
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